江戸の公衆トイレ事情

水洗便所はヨーロッパから日本に伝わったとされていますが、実は大昔から日本にもあったようです。
その証拠は「厠(かわや)」という言葉に隠されています。
文献によれば、厠は河の上に架けて不浄を流すもので、「河屋」のことだそうです。
つまり水洗便所が「厠」の語源なのです。

厠が初めて文献に登場するのは「古事記」ですが、考えてみれば日本人はよく 「水に流す」と言います。
これはすべての汚れ(穢れ)を水に流してきれいにすることで、排泄物も例外ではありませんでした。
また、日本における汲取便所は、鎌倉時代以降に登場したと言われています。
栄禄8年(1565年)ポルトガルの宣教師フロイスは、京都の町のトイレを見て驚きました。
「欧州人のトイレが家の後ろの方のなるべく人目に付かない場所に設けられているのに、日本人のトイレは家の前にあって、すべての人に開放されている」
西洋に公衆トイレが登場する300年も昔のことだったようです。

江戸時代になると、京都の四辻の木戸脇ごとに小便用の桶が置かれました。
「辻便所」と言います。
これは尿を集めて肥料として売るため知恵でした。
一方、天下の総城下町といわれた我らが江戸は相当に遅れていたようです。

幕末の随筆「守貞漫稿」には、「京阪は路傍のあちこちに尿桶を置いて往来の人に尿を棄てさせる…江戸は路傍に尿を棄てるところがまれにあるのみ」 とあります。
江戸には辻便所がほとんどなかったのです。

その結果、 「真っ昼間から往来の真ん中で用を足し、だれもこれを咎めるものがなかった」 と記録にあるようです。
道路のあちらこちらに小便の小川ができ、犬や馬の糞と一緒に人間の糞もゴロゴロ。
江戸八百八町には糞尿の香りが漂い、火事と喧嘩だけでなく、糞と小便も 江戸の華だったようです。

幕末に駐日公使として来日したオールコック氏は、「江戸市内の街路はきわめ て清潔であって、汚物が積み重ねられて通行の邪魔になるようなことはない」 と日記に書いております。
(西洋では無造作に捨てられている大量の糞尿の為、馬や人が足を捕られ死亡する事もありました)
京都より遅れていた江戸でさえトイレ先進国であったようです。

西欧は汚物はただの汚物ですが、日本では貴重なもの。
その考えの違いが、これら事情となりました。

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