山手線・駅名の由来

東京の「山の手」地区を走る山手線は、およそ1時間で1周する環状線として知られ、時計回りに回る「外回り」と反時計回りに回る「内回り」があります。
しかし、一周全てが山手線というわけではなく、実は田端~東京間は東北本線、東京~品川は東海道本線が正式名称なのは意外に知られていません。

古くは「やまのてせん」と呼ばれていた山手線なのですが、終戦後、進駐軍が国鉄全路線のローマ字表記を提出させた時に「Yamate Line」と書いてしまい、それがきっかけとなって「やまてせん」と言う読み方が広まったそうです。

29駅ありますが、地名の由来は諸説紛々。
現在まとめられているものを見てみましょう。

山手線

山手線

品川  目黒川の古名が品川と呼ばれていたとする説と、上無川(神奈川の語源)に対して下無川(しもなしがわ)が略されて品川になったとする説など、諸説あるそうです
田町  JR田町駅三田口周辺一帯に広がっていたかつての町名が由来。江戸時代に田畑から町屋へ開発が進んだ事からつけられた
浜松町  元禄9年に名主となった、権兵衛が遠江国浜松出身だったことから「浜松町」と呼ばれるようになった
新橋  江戸湾の埋立でできた汐留川に日本橋通りの南端に新しく架けた橋の名前である。数奇屋御門橋を芝口門といっていたので、こちらの橋は「芝口新橋」となった。当時の江戸っ子が短く「新橋」と呼び定着した
有楽町  織田信長の弟である織田長益(有楽斎)の邸宅跡地で「有楽原」と呼ばれ、後に「有楽町」になったという説が一般的。
 しかし、織田有楽 斎は、生涯のほとんどを上方で過ごしており、江戸に屋敷を拝領したという記録も現存していないという話もあります。
  このほかには、江戸開府期、この辺りまで海が入り込んでいた(日比谷入江)ため、「浦原」「浦ヶ原」が転じて残ったのではないかという説もあります。
東京  当時建設した駅で一番皇居に近くにあり、日本を代表する駅として命名された。工事中は中央停車場と呼称していたが1914年12月18日に完成し、「東京駅」となった。
神田  付近に平将門の子孫神田氏が住んでいたからとの説と、伊勢大神宮に稲の初穂を納める「神田(みとしろ・みた)」があったとの説があります
秋葉原  現在の所在地に幕末頃より火除地があり、そこに秋葉神社(鎮火・防 火の神として、古来より篤く信仰され、各地にあります)を祭りました。この呼び名が駅名になりました
≪秋葉原の正しい読み方≫
御徒町  北御徒町(きたおかちまち)・中御徒町のように「御徒」を付けて呼ばれた御徒組同心屋敷がありました。 御徒組の役目は、将軍外出の際、徒歩で先駆を務め沿道警備などに当たりました。
≪江戸の公務員住宅≫
上野  上野山は、戦国時代には忍岡(しのぶのおか)と呼ばれており、元々人口の少ない地域でした。
1603年に江戸幕府が開かれた頃、忍岡には、伊賀国上野を本拠地とする外様大名・藤堂高虎の屋敷が置かれました。
寛永2年(1625年)に天海僧正が江戸城鎮護と国家の安穏長久を祈願して寛永寺を建立。門前町が開かれました。(寛永寺の命名は江戸寛永年間に創建されたことに因みます。)この頃から、、藤堂家の所領である上野に地形が似ていたため、寛永寺付近の一帯を「上野」と呼ぶようになったと言われています。
 寛永寺は徳川家の菩提寺として歴代将軍の墓が建てられ、幕府の保護もあって門前町の上野も発展しました。
  上野寛永寺は、江戸城から見て陰陽道上の鬼門に当たり、京都の延暦寺(京都から見た場合は北東)に擬えた江戸鎮護の寺でもあったということです。
鶯谷  江戸時代の話。元禄年間に徳川家の菩提寺である寛永寺の住職として京都からやってきた公弁が、「江戸の鶯は訛っている」と言って、文化人の・尾形乾山に京都から鶯を運ばせ、この地域に放ったことに由来するとされています。
  寛永寺は鶯谷から上野公園に向かって歩く途中にありますが、現在は都市化が進み鶯の多い地域の名残すら感じられないようです。
日暮里  室町時代の文献に「新堀」として登場し、この地が高台で眺めがよく、「日が暮れるまでいても飽きない里」ということから、「日暮らしの里」となり、「日暮里」となった。
西日暮里  日暮里の西に位置するから
田端  田の端に集落があったことによる。町は崖上が古く崖下が新しい。崖を境に崖上を「上田端」崖下を「下田端」に分けた。
駒込  日本武尊が東征のおりに、味方の軍勢を見て「駒こみだり」といったことに由来するとする説や、原野に駒(馬)が多く群がっている様子から起こったとする説
≪地名の由来 「豊島編(1)」≫
巣鴨  大きな池に鴨が群れ棲んでいたことによる
大塚  大きな塚があったことに由来するが、その塚は太田道灌が築いた物見塚とするなど、諸説ある
池袋  この地に大小無数の池があった説、池より亀が袋を背負って出てきた説、袋池と呼ぶ袋の形をした大きな池があった説など様々
目白  ①この地で白い名馬を産したという説②徳川家光が鷹狩の際に「目黒」に対して呼ぶようになったという説③江戸開府のときに慈眼大師が五色不動を造立した際、白い目の不動像が置かれたため等の説がある
≪目白が出来たのは目黒があったから≫
高田馬場 ≪高田馬場の由来≫
新大久保  久保はくぼんだ土地の意。先に大久保駅の後に開設したので「新」がついた
新宿 ≪新宿の由来≫
代々木 ≪むかしの代々木≫
原宿  鎌倉から奥州へ通じる鎌倉街道沿いにあった村で、宿駅が置かれていたことが地名の由来
≪神宮前のむかし≫
渋谷 ≪渋谷の由来≫
恵比寿 ≪渋谷区恵比寿~憧れの高級住宅街特集≫
目黒  当地に所在する目黒不動の称号をそのまま村名とした説、毛色または目色が黒い馬の名前から起こったという説
五反田  元は江戸時代に「五たんだ」として出現した地名です。このあたりは目黒川の谷が東西に流れ、谷周辺の水田の一区画が丁度5反(約5000平)だったためつけられたと言うのが有力な説です。しかし五反田は、大崎村の小字(こあざ)で、周辺でしか知られていない小さな地域でした。
  一般に知られるようになったのは明治44年(1911年)。星製薬工場が建設され、山手線の五反田駅が開業したことがきっかけでした。
大崎

 大崎と言う地名が使われたのは江戸時代からといわれています。地名は秩父から続く尾崎であることに由来し、これが転訛して大崎となった説と、過去に東京湾に大きな崎(岬)が突き出ていたという説が知られています。
大崎二丁目・三丁目地域一帯は目黒川を望む高台になっていて、人が住むのに好立地な場所です。また、西品川三丁目付近には、「居木橋遺跡」があり縄文時代の土器や貝塚などが出土しており、古くから沢山の人が住み栄えていた形跡があります。これらが説を裏付ける一因となっているといえましょう。

 山手線は発車ベルのメロディー化が早かったため、「せせらぎ」「春」といったユニペックスの代表的なメロディーが多用されている路線です。
1998年7月4日にATOS(東京圏輸送管理システム)の2号線区として稼働しているため、自動放送は各駅とも同様のものに統一されました。

品川田町間に新駅の設置が計画され、 「品川駅・田町駅周辺まちづくりガイドライン」が報じられております。
どんな駅名になるのでしょうか?
由来は?楽しみですね。