江戸の町境「かねやす」誕生秘話と坂道に残る別れの物語

かねやす
本郷三丁目の交差点に佇む「かねやす」。江戸時代、「本郷もかねやすまでは江戸のうち」と川柳に詠まれたこの場所は、江戸の北限として知られ、多くの人々の人生の節目に関わってきました。今回は、かねやすの由来や、見送り坂・見返り坂にまつわる涙と別れの物語、そして町の歴史をたどります。今も残る江戸の面影を、あなたも歩いてみませんか。

かねやすとは何か――江戸の境目の象徴

「本郷もかねやすまでは江戸のうち」とは

本郷三丁目交差点の南西角に位置する「かねやす」は、江戸時代から続く歴史的な場所です。川柳「本郷もかねやすまでは江戸のうち」は、江戸の町の北限を示す有名な一句。江戸の市中を北上すると、かねやすにたどり着くことから、ここが江戸の終わりとされてきました。現代でも交差点には「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」と記された看板が掲げられ、当時の面影を今に伝えています。

かねやすの由来――歯磨き粉の名店から町の象徴へ

「かねやす」の名は、享保年間(1716~1736)にこの地で歯科医・兼康祐悦が売り出した歯磨き粉「乳香散」に由来します。乳香散は当時大変な人気を博し、店は大いに繁盛。やがて「かねやす」は歯磨き粉の代名詞となり、町の象徴的な存在として名を馳せました。江戸市中の最北端に位置していたこともあり、川柳や庶民の会話にもしばしば登場する存在となったのです。

江戸の町を分けた大火と町づくりの変化

享保の大火と町奉行・大岡越前守の決断

1730年、江戸を襲った大火は湯島や本郷一帯を焼き尽くしました。この復興にあたり、町奉行の大岡越前守は、かねやすを境に南側を耐火性の高い土蔵造りの塗屋とするよう命じました。一方、北側は従来通りの板や茅葺きの町家が並び、町の景観が一変。こうしてかねやすは、建築様式の違いによる町の「境目」としても認識されるようになりました。

江戸の境界線と「御府内」の定義

江戸の範囲は時代や人によって解釈が異なりましたが、幕府は文政元年(1818)に「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」と正式な見解を示しました。しかし、庶民の間では「かねやす」までが江戸という感覚が根強く残り、町の境界線として語り継がれてきたのです。

見送り坂・見返り坂――別れと再会の坂道

見送り坂と見返り坂の由来

かねやすの近く、本郷通りには「見送り坂」と「見返り坂」という二つの坂があります。江戸時代、罪人が江戸追放(所払い)となると、かねやす近くの「別れの橋」で家族や友人と涙の別れをしました。南側の坂で見送る人々がいたことから「見送り坂」、追放される本人が北側の坂で何度も振り返ったことから「見返り坂」と名付けられました。

別れの橋と江戸追放のドラマ

「改撰江戸志」には、かつてこの地が太田道灌の領地の境目であり、罪人がここから放たれたと記されています。別れの橋は、見送り坂と見返り坂の間にあった小さな川に架かっていた橋で、追放者が江戸を離れる最後の場所でした。テレビドラマ『遠山の金さん』や『大岡越前』でも、ここでの涙の別れが描かれ、今も多くの人の心に残る名場面となっています。

現代に残る「かねやす」と歴史散歩の魅力

現地に残る標識と街歩きの楽しみ

現在のかねやすは、洋品店として本郷三丁目交差点に現存しています。通りには「本郷もかねやすまでは江戸のうち」と書かれた看板や、見送り坂・見返り坂・別れの橋跡を示す文京区の標識が設置されています。坂道はゆるやかで、車では気づきにくいものの、徒歩や自転車で訪れればその歴史的な地形を体感できます。

かねやす周辺の歴史スポットとおすすめルート

かねやすから見送り坂・見返り坂を巡る散歩コースは、江戸の歴史と人々のドラマを感じられる絶好のルートです。近くには東京大学や加賀藩上屋敷跡などもあり、江戸時代の町並みや暮らしを想像しながら歩くことができます。春には坂道に咲く花々や、歴史標識を巡る街歩きもおすすめです。

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