盗賊・ねずみ小僧

ねずみ小僧次郎吉は1797年(寛政9年)江戸日本橋生まれとか愛知県蒲郡市生まれとも言われています。

1823年(文政6年)ごろから武家屋敷などに盗みに入り、一度捕らえられて刺青を入れられ江戸を追放されたものの、小柄な体を利用してその後も盗みを重ね、1832年(天保3年)に再び捕らえられ、江戸市中引き回しの上、 磔(はりつけ)獄門となりました。

武家屋敷での盗みが多かったことから「義賊」との評判が高く、盗んだお金を 貧乏人に施したと言われました。
盗賊・鼠小僧を題材とした歌舞伎や芝居などは数多く、江戸中の評判になり、連日大入りを記録したそうです。

しかし、本当の鼠小僧は、盗んだ金で贅沢をし、飲む打つ買うで消費し、 貧乏人に施した形跡は無かったようです。
鼠小僧は生涯に武家屋敷99ヶ所に120回盗みに入り、計金3100両余などを盗んだとされており、米価を基準に現在の通貨に換算すると 約1億800万円を上回ります。
最も被害が多かったのは、岐阜の大垣藩で400両、現在の約1400万円を 一度に盗まれ、佐賀藩の鍋島家には五回も忍び込み、10両から60両ずつ、 計176両(約616万円)を盗んでいます。
このほか御三家の「水戸」、「尾張」から合わせて91両、細川護煕元首相の先祖に当たる熊本藩細川家も3回にわたり計12両(約42万円)を盗んだそうです。

江戸のお仕置場(刑場)は品川の鈴ヶ森と南千住の小塚原(こづかっぱら:南千住 2-34)にありました。
小塚原刑場は間口60間余(約108m)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに斬罪・磔(はりつけ)・獄門などの刑が執行された場所です。
小塚原刑場の年次は明らかではありませんが、明治6年7月1日に廃止される まで、20万人余が処刑されたといわれています。

常磐線に挟まれた向い側には回向院(えこういん)があります。
1667年(寛文7年)に両国回向院の住職弟誉義観によって、行路病死者、刑死者の供養のため別院として創建され当事は常行堂と称しました。
以来、小塚原刑場の受刑者や牢死者のほか、安政大獄で吉田松陰、梅田雲浜、 橋本左内、瀬三樹三郎等の多くの志士たちが回向し奉られてきました。
ねずみ小僧もここに葬られましたが、いつの頃からか、墓石の破片をもっていると願い事がかなうと言い伝えられ、墓石を打ちかいて持ち帰る人が後を たたず、造っても造ってもいまだに削り取られてしまいます。

今ある墓石は近年作られた新しい物で、墓石には金網が巻かれています。