目白文化村 -幹線道路に分断された最高級住宅街-

現在の新宿区中落合2、3、4丁目付近には目白文化村と呼ばれた高級住宅街がありました。

目白文化村は大正11年(1922年)から分譲が始まった郊外型の分譲地でした。

後の西武グループを生む堤康次郎の箱根土地(株)がこの下落合の田園地帯に、当時開催中の平和記念博覧会において好評だった住宅展覧会(別名文化村住宅展)から名前を取り、目白文化村と名付けて販売を開始したと聞きます。

田園調布に先駆ける事2年、第一から第四まであわせて約3万坪を2百数十の区画に分けて分譲されました。
1区画平均約112坪、第一区画は現在消防署となっている場所に箱根土地本社があり、そのまわりの土地を整形に区画して分譲されました。

地下埋設の電気、ガス、水道、下水設備(下水溝は御影石で覆われていたという)、共用施設として、クラブハウス、テニスコート、相撲場も備えた堂々たるもので、田園調布と同じように、 土地だけの更地分譲でした。

文化村の住民組織であった「二十日会」では、クラブハウスを利用した映画会や音楽会、また講演会を開くなど大いに利用されていたとも聞きます。

翌年には最大規模の第二文化村を第一文化村を包み込むような形で売りに出しました。

分譲単価はやはり都心に近いということから、翌年売り出しの田園調布より高かったそうです。

関東大震災の翌年、大正13年(1924年)には第三文化村が現在の聖母病院の西側に小規模に販売され、大正14年(1925年)第四文化村が落合一小の南西側にこれも小規模に販売されました。
購入者は官僚、大学教授、芸術家、事業経営者、技術者と多岐にわたり、多様な洋風住宅が建てられました。

とくに第一文化村は洋風建築が多く 、これが大正時代かとびっくりするような欧米風の郊外型住宅が並んでいたそうです。

住宅の大半は戦災により焼失してしまいましたが、町を散策してみると、帝国ホテルを設計したライトの影響が見られる門柱や大谷石の低い石垣・生け垣と盛土された宅地等に当時の面影をみることができます。

後にテニスコートや倶楽部ハウスも宅地として売却されていきます。

第三文化村のすく近くに画家の佐伯祐三がアトリエ(新宿区中落合2-4-22)を持ったのは、大正9年(1920年)、22歳の時で、上京してわずか2年後、新婚ほやほやであったそうです。

その佐伯祐三の作品に「下落合風景」(昭和元年ごろ)と題された連作が有ります。
その1つに白いウェアーを着た数人の人物がテニスコートで遊ぶその背景に大きな家が見えます。
のどかな東京郊外を描いた絵になりますが、この背景が目白文化村の完成当時の姿と言われています。

その後、環状6号線と放射7号線(新目白通り)の道路計画決定が1927年に文化村を分断する形で決まり、それぞれ1951年、1967年に開通します。
これにより幹線道路に面する土地の高度利用が可能になり、マンションやショッピング施設が建てられ、 低層住宅地ではなくなってしまった事が、町並みを変えてしまった大きな原因かもしれません。