祐天寺 -出来の悪かった裕天上人と眞景累ヶ淵-

祐天寺は祐天上人(ゆうてんしょうにん)を開基にその高弟、祐海上人が
「一寺を造営し、長時の念仏を修し、未来の衆生済度(迷いの苦しみから衆生を救って、悟りの世界に渡し導くこと)の為に備えよ」
と遺言した祐天上人の遺志を継ぎ、新しい寺の建立には制約があったこの当時、幕府に働きかけ、祐天上人が念仏修行をした増上寺の末寺、目黒の善久院を買いとり祐天上人の没年を開山とする寺を創建しました。

享保7年(1723年)には、時の将軍吉宗から「明顕山祐天寺」の寺名を許されます。

祐天上人は寛永14年(1637年)福島県いわき市四倉町上仁井田で生まれ、その後僧侶を目指します。

12歳のとき、祖父が江戸の芝増上寺にいた関係で増上寺檀通上人の弟子となり僧名を祐典と名乗ります。
しかし、祐典は出来が悪く檀通上人から勘当され悩み自殺までしますが助けられ、また改心し、成田山新勝寺の修法道場(断食修行)で神仏に願いをかけ21日間修行を行います。

その白昼夢の中で不動明王に口に剣を飲まされ血を吐き、すぐれた知恵を授かったといいます。

その後も修行に励み才覚を表し、延宝2年(1674年)師、檀通上人にも勘当が解かれ、僧名も祐天と名乗り檀通上人が入寂(死去)後も、仏典研究と浄業修行、弟子の訓育養成に尽力しました。

その後、小石川の伝通院住職や徳川将軍家の菩提寺増上寺の36世法主を務め、5代将軍綱吉、6代将軍家宣の帰依も受け、奈良・東大寺の大仏を含む多くの廃寺の復興にも力を注ぎました。

また、増上寺法主の時代には「増上寺消防制」を創設し、当時数千人居たと言われる学生を「いろは四十八文字」に分け、寺内消防防火体制を整えます。
一度の火災も出さなかった、この制度が高く評価され、のちに町奉行大岡越前守忠相がこの制度を参考にし「江戸町火消し」を確立させたそうです。

境内には仁王門や阿弥陀堂、鐘楼と鐘など江戸時代の貴重な建造物のほかに、江戸時代の歌舞伎作家 鶴谷南北の「色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)」や、三遊亭円朝の「眞景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」などの怪談物で知られる『』の記念碑と絵馬があります。


累(かさね)の実話はこんな話です。

江戸時代の初期、現在の茨城県水海道市の羽生村に与右衛門という百姓が住んでいました。
妻が早くに亡くなった為、隣村からお杉という未亡人を後妻に迎えました。
お杉には助と言う3歳の子供が居ましたが、足が悪く歩行が不自由で容姿もまた大変醜かったそうです。
与右衛門は助を忌み嫌い、このため夫婦仲もうまくいかず、悩んだお杉は助を横曽根村と羽生村境の水路に突き落とし殺してしまいます。

翌年、お杉は女の子を出産し累(るい)と名付けます。
すると恐ろしいことに累は殺された助に姿形そっくりに育ちます。
それを見た村人は噂しあいました。
あれは「るい」ではなく「かさね」だと
その後、両親は相次いで病気で無くなり、累は1人になってしまいます。

ある日、谷五郎と言う流れ物が近くのお堂で病気で苦しんでいることを聞き、心優しい累は谷五郎の看病をします。
やがて病気も快復しお礼の気持ちからしばらく畑作業を手伝っていました。
それを見た村長の勧めで累は谷五郎を婿に迎え、谷五郎は2代目与右衛門を襲名します。
谷五郎は累を大切にし農作業も熱心に頑張りましたが、流れ者の性か次第に働かなくなり、その醜さを嫌い累につらく当たるようになりました。

正保四年(1647年)8月11日夕刻、とうとう谷五郎は苅豆を背負って家路を急ぐ累の背中にそっと近づき、鬼怒川堤から河中へ突き落としてしまいます。
累を殺害した夫・谷五郎は、何食わぬ顔で後妻を娶ったが、累の祟りか病死したり不縁になったりで長続きせず、7人目の後妻のきよにようやく菊という娘ができました。

寛文12年(1672年)菊が14歳になったある日、突然、累と助の死霊が次々と菊にとり憑(つ)いて苦しめます。
そして狂乱状態の中、誰も知るはずの無い、累と助の殺された真相をしゃべり始め村人は事実を知ります。
しかし菊はその後も苦しみ続け、その様を見かねた村人たちは、当時、飯沼弘経寺の遊獄庵にいた祐天上人に頼み、怨霊退散の修法を行い、法力も持ってこれを解脱(げだつ)させたと聞きます。

祐天寺
【住所】目黒区中目黒五丁目24番53号
【交通】東急東横線祐天寺駅から徒歩5分

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