五本木 -地名の由来と今-

赤坂一ツ木通りや六本木など、数字と木を組み合わせた通りや地名は各地に見られます。 目黒区五本木もそのひとつ。
名前の由来はやはり「人目を引く五本の大木があったから」というのが定説になっています。

歴史を紐解きますと、江戸時代、五本木は、目黒六カ村の一つ「上目黒村」の小名でした。
文化・文政期(1804年から1829年、化政文化の時期)に編まれた武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』よると、同村の小名として石川組、五本木組、宿山組、上地(あげち)組、諏訪山道、柳町耕地、石川町耕地、小川町耕地を列挙し、五本木組は「村の南を云」と記されています。
江戸時代の村には、「組」という小行政単位があって、年貢の徴収や生活共同体としての機能を持っていました。このことから、五本木の地名はもっと古く、鎌倉、あるいは室町時代からあったのではないかといわれています。

旧:守屋教育会館郷土資料室(五本木二丁目)裏手の庚申塔群の中に、「上目黒五本木組 庚申供養塔 文化七庚午年十一月吉日」と記されている碑面があります。庚申塔群の前を走る細い道は、鎌倉幕府の勢力下にあった関東八州と鎌倉を結ぶため、各地に発達した「鎌倉街道」の一つといわれています。
旅人が、地名の由来とされる五本の大きな樹木をながめながら、鎌倉へと道を急ぐ姿が目に浮かびます。

しかしこの辺りは、「昼間でさえ、身の毛がよだつほど薄暗く、元気のよい若者でも通ることを恐れた」という、明治の初めごろの様子を語った土地の人の言葉がのこされており、いかに未開発の地であったのかが伺えます。
このように、江戸時代から明治、大正にかけて「五本木」は深い農村地帯でした。開発の手が入るのは東横線が開通する昭和2年まで待つことになります。

昭和7年(1932年)には区制施行により一度「五本木」という地名は姿を消すことになるのですが、昭和43年(1978年)に「住居表示に関する法律」による町名変更で、再び「五本木」が復活することになりました。

目黒区の北部に位置する五本木は閑静な地域です。地域内を南北に三宿通りと五本木通りが走り、南端沿いには駒沢通りがそれぞれ通っています。
また東急東横線の線路が当地域を通っており、一丁目東部に祐天寺駅(祐天寺二丁目)があります。

四方をみても、北部は目黒区上目黒、東部は目黒区祐天寺・中町・中央町、南部は目黒区鷹番、西部は世田谷区下馬に接しており、どの地域も人気の街。
名だたる地域に囲まれた五本木は、一丁目から三丁目まであり、人気の住宅地になっています。