渋谷といえば、スクランブル交差点、センター街、再開発で生まれ変わった渋谷駅前の高層ビル群を思い浮かべる人が多いでしょう。しかし地名に「谷」がつくように、このエリアはもともと渋谷川とその支流が刻んだ「谷底の街」。川に刻まれた深い谷地形と、その周辺に広がる台地との高低差による坂に囲まれた独特の地形が、現在のにぎわいと街のキャラクターを形づくってきたのです。
目次
渋谷という地名の秘密
「渋谷」の由来にある複数の説
渋谷という地名の由来にはいくつかの説があり、代表的なのが「しぼんだ谷あい」を意味する地形由来の説です。渋谷川流域の低地が周囲の台地に囲まれた細く狭い谷であったことから、「渋=しぶ(しぼむ)」と「谷」が合わさって渋谷になったと説明されます。
一方で、中世にこの周辺を本拠とした武士団「渋谷氏」の名字に由来するという人名説もあります。
さらに、かつてこのあたりが「塩谷の里」と呼ばれる入江で、「塩谷(しおや)」が転じて「しぶや」になったとする説も伝わっています。
「渋」という字が示すもの
漢字の「谷」は地形をそのまま表しますが、「渋」は水の色や性質に由来するとされることがあります。 渋谷川には、周囲の地層から溶け出した成分が流れ込み、水が柿渋のような赤茶色を帯びていたため、「渋い谷」「渋色の水が流れる谷」という意味合いで渋谷と呼ばれるようになったという説です。
現在は暗渠化されている区間が多く、地上から渋谷川の色を実感することは難しくなりましたが、渋谷区内の地層には「渋谷粘土層」と呼ばれる地層が知られており、地盤や川の性格と地名の関係を考える手がかりになっています。
「谷」がつく街・渋谷の地形
一川五台地二十谷とは?
渋谷の地形は「一川五台地二十谷」と表現され、武蔵野台地を刻む渋谷川と支流がつくり出した複雑な谷のネットワークが特徴です。区内では高低差が約35メートルにも達し、渋谷駅周辺の低地から千駄ヶ谷、代々木、幡ヶ谷、東渋谷、駒場などの高台へ向けて、いくつもの谷と坂が伸びています。
現在の地図で見ると、渋谷駅を中心に、北側は代々木公園や原宿方面の台地、東側は青山・表参道方面の高台、西側は神泉・駒場方面、南側は恵比寿・代官山方面の高台が取り囲む「すり鉢」のような地形になっているのがわかります。
渋谷駅は「谷底の街」のど真ん中
山手線の渋谷駅は、まさにこの「谷底」に位置しており、ホームから地上出口へ上がるだけでも高低差を実感できる構造になっています。駅の東側には宮益坂、西側には道玄坂、南側には桜丘町方面へ向かう坂道など、四方から坂が駅に向かって下り込んでおり、これが「谷の底に駅がある」典型的な姿です。
渋谷ヒカリエや渋谷スクランブルスクエアなど新しいビルが並ぶ一方で、ビルとビルのあいだをよく見ると、階段やスロープで急に高さが変わる場所が多く、再開発の風景の裏側に、長い時間をかけて削られた谷地形の名残が潜んでいます。
渋谷の「谷」を歩いて感じる
宮益坂・道玄坂と「谷」の実感
宮益坂は、現在の渋谷駅東口から渋谷ヒカリエを抜け、明治通り・青山通り方面へと続く坂で、かつての谷底から青山台地に上るルートにあたります。 通勤やショッピングで何気なく上り下りしている坂道ですが、「谷から台地へ上がっている」と意識して歩くと、渋谷の地名が地形と直結していることを身体で感じられます。
一方の道玄坂は、渋谷駅ハチ公口から西へ伸びる繁華街のメインストリートで、かつての宇田川方面の台地へ向かう坂道です。 ライブハウスや映画館、飲食店が並ぶにぎやかな坂ですが、上りきった先にある神泉町・円山町一帯は、谷を見下ろす高台であることが地形図からも読み取れます。
キャットストリートと渋谷川の痕跡
渋谷と原宿をつなぐキャットストリートは、かつての渋谷川の支流・穏田川の流路が暗渠化された上につくられた道路で、「谷の底に川が流れていた」名残をたどることができるスポットです。 個性的なセレクトショップやカフェが並ぶおしゃれな散歩道ですが、足元の地形に目を向けると、周囲の建物より少し低い位置を細長く伸びていることに気づきます。
この暗渠区間は、宮下公園〜明治通り〜原宿方面へと続き、現在のストリートカルチャーと、かつての川と谷がつながっていることを教えてくれる都市地形の教材のような場所です。
「谷」の地名が教えてくれること
千駄ヶ谷・幡ヶ谷など周辺の「谷」たち
渋谷周辺には、「千駄ヶ谷」「幡ヶ谷」など、同じように「谷」を含む地名が点在しています。 これらはいずれも、武蔵野台地を刻む川や谷に沿って広がった集落に由来し、地名をたどるだけでも、台地と谷の凹凸に富んだエリアであることが見えてきます。
現在の鉄道路線で見ると、千駄ヶ谷は中央・総武線沿線、幡ヶ谷は京王新線沿線の住宅地として知られていますが、もともとは渋谷川水系と神田川水系に挟まれた台地や谷筋の地形に支えられて発展した地域です。
「谷」が多い街と防災・まち歩き
「谷」がつく地名は、一般に周囲より低い土地であるケースが多く、大雨時の冠水リスクなど、防災の観点からも注目されることがあります。 実際に、近年のゲリラ豪雨では渋谷周辺で道路冠水が起きた事例もあり、「地名は地形の記憶」をとどめているという指摘もなされています。
一方で、渋谷のような谷底の街は、坂道や高低差が生み出す景観の変化や眺望の面白さなど、まち歩きの魅力にも富んでいます。 渋谷駅を起点に、宮益坂で青山方面へ、道玄坂で神泉方面へ、キャットストリートで原宿方面へと歩いてみると、「渋谷」という地名に隠れた谷の秘密を、足元の感覚として味わえるでしょう。
今の渋谷で「谷」を探す楽しみ
再開発が進む渋谷駅周辺では、高架歩道や立体通路によって地面の起伏を意識しにくくなっていますが、エスカレーターの上下やビル間の階段に注目すると、谷底から台地へ上り下りしていることがよくわかります。 スクランブルスクエアやヒカリエの高層フロアから外を眺めると、周囲の街並みが「ボウル状」に広がっている様子も確認でき、地名と地形のリンクを俯瞰で楽しめます。
渋谷という名前に込められた「谷」の記憶は、渋谷川の暗渠やキャットストリート、数々の坂の名前など、今の東京の街並みにひっそりと刻まれています。 買い物やグルメの合間に、少しだけ足元の高低差に意識を向けてみれば、いつもの渋谷が、まったく違って見えてくるはずです。















