大久保の由来

大久保の由来は、「西大久保と東大久保の境界が大きな窪地であり、そこから 大窪村になり、それが後に大久保村に改定された」という説があります。

大きな窪地とは、かつてここら一帯に流れていた蟹川(かにがわ)の流域の ことで、現在の歌舞伎町1~2丁目の境と新宿6~7丁目の部分でした。
江戸時代の大久保全体の範囲は、現在の歌舞伎町2丁目、新宿6~7丁目、大久保1~3丁目、百人町1~3丁目、余丁町、西新宿7丁目、と実に広範囲 だったのです。

この大久保には「箱根」と名の付く地名があります。

「箱根」と言うと誰もが神奈川と静岡の県境にあり、伊豆半島の基部になって いるあの観光地の事を想像すると思います。
ところが「箱根山」と言う名前の山が、戸山公園の中に標高44.6mと言うちょっと箱根山と名乗るのには小さすぎる人工的な山にその名前が付けられて います。
小さな山と言っても23区では、一番高い山になります。

この戸山公園がある戸山町一帯は、江戸時代には外山荘と呼ばれた 尾張藩徳川家の下屋敷があった場所で、そこに13万6000坪という広大な庭園が設け られていたのです。

その人工庭園の中に作られた人工的な築山が箱根山だったのです。

元々、この人工山は「玉円峰」と呼ばれていたと記録に残されているのですが 、それがいつの間にか現在の「箱根山」に変わったのです。
それは、この庭園は全体を東海道五十三次をモデルにして造られていたと言われ、その中に休憩するために宿場町もひとつ作られて「小田原宿」と呼ばれてました。
その小田原宿のすぐ横に人口山の「玉円峰」があったために、小田原の次にある山と言えば「箱根山」だと言うことになったのらしいです。

そして時代は変わり庭園の一部は公園に変わり、その中の箱根山が現在に至っていると言うことです。