中野と「生類憐みの令」の関係

その昔、中野周辺は江戸の市街地から離れた近郊農村でしたが、徳川家五代将軍綱吉の「生類憐みの令・しょうるいあわれみのれい」によって作られた犬屋敷(お囲い御用屋敷)があったことで有名です。

歴代将軍の中でも学問好きで知られ、学問の奨励や福祉政策を行って、名君と言われた綱吉でしたが、天和2年(1683)に世子(世継)・徳松(とくまつ)を亡くした後、後継ぎに恵まれませんでした。
そのため母・桂昌院(けいしょういん)が、知足院(ちそくいん)の僧・隆光(りゅうこう)に助言を求め、「子を得たいなら殺生を慎み、生類憐みを心がけよ、綱吉公は戌年生まれなので特に犬を大事にすればよい」という進言を受けたのが動機とされています。

天下の悪法と言われた「生類憐みの令」は、1687年から1709年の22年間にわたって出されたたくさんの法令の総称です。

極端な「動物愛護令」と言われていますが、捨て子の禁止や牢獄の改善など人間に関することもあったようです。
とにかく、犬を飼うとやっかいだという理由で、犬を捨てる人たちが増えました。
そこで、幕府は捨て犬を収容するために3ヶ所(大久保・四谷・中野)に犬屋敷をつくりました。
特に中野は大きく、元禄8年〔1695〕に、現在のJR中野操車場周辺(中野2丁目)に 「一の囲」が造られたのを皮切りに、「お犬様」が増えるにしたがい、中野駅北口(中野4丁目)に「ニの囲 」、警察大学(中野4丁目)のところに「三の囲」、さらに環7通りの東側(高円寺北1丁目)までに「四の囲」、中野3丁目と高円寺南5丁目の東半分に「五の囲」といった具合に拡大していきました。 

結果として、東西2キロメートル、南北1キロメートルの範囲に約30万坪100ヘクタールもの面積をもつ施設となりました。
当然、その養育費用は膨大な金額になり、「お囲い」の経営は幕府の財政まで圧迫したと聞きます。
宝永六年(1709)正月10日、綱吉が逝去すると、すでに江戸城西の丸に入っていた継嗣徳川家宣は、翌日柩の前で、庶民を22年間も苦しめた「生類憐みの令」の廃止を宣言したそうです。