砧撮影所(現東宝スタジオ)

砧撮影所(現東宝スタジオ)は、仙川を挟んで打越橋から大蔵水道橋にかけて、広さ約90,000㎡の敷地を有しています。

敷地内には、8棟のステージ、 オープンセット、プール、サウンドセンター、試写室、スタッフルームや 各作業場などの設備をそなえています。
また、大駐車場のある東宝日曜大工センター等も東宝スタジオの敷地内で営業 しています。

東宝株式会社は、昭和7年(1932年)6月1日に創設されました。
その母体となったのは、民間企業の写真科学研究所になります。
ここでは、映画技術の様々な開発が行われましたが、なかでも、独自の 録音システム(PCL方式)の完成には、高い評価が与えられました。

昭和7年(1932年)10月25日、当時最新式を誇るステージが完成し、それから、現在の東宝スタジオとなるまでの間、名作と呼ばれる、東宝映画の数々の作品が生み出されました。

昭和29年(1954年)、撮影所内にある小山の斜面(現在は宅地化されて多くの住宅が立ち並んでいる)には 「七人の侍」の大オープンセットが建てられ、 多くのスタッフやエキストラが泥にまみれて右往左往していたそうです。
別の一画では円谷英二さんが、ゴジラのミニチュアセットを懸命に作っていたとも聞きます。
この年は東宝にとっても、日本映画にとっても、画期的な年になりました。

また、この撮影所では大きな事件もありました。
昭和23年(1948年)4月16日、東宝砧撮影所での大量人員整理に端を発した、経営者と従業員との労使抗争が激化し、ついに武装警官の大量出動 (「来なかったのは軍艦だけ」といわれた)という事態になったそうです。
歴史的には、「東宝争議」と呼ばれています。
経営者側は、「二つの赤をなくす。経営の赤字と日本共産党員をなくす。」 と宣言し、砧撮影所の閉鎖、全員解雇とエスカレートします。
当時は終戦直後で、日本はまだアメリカの統治下でした。
アメリカは、撮影所の共産化に危機感を感じ、実力を持って対処する方針を 固めました。
撮影所を占拠した組合員に対し、仮処分執行命令を携える執達人を先頭に警官2千人と米軍のジープ6台、騎兵銃をを持ったMP(憲兵)、シャーマン戦車4台 、装甲車4台が撮影所の正面に、上空には米軍機が飛来、轟音を響かせていたそうです。


砧撮影所
世田谷区成城1-4-1