高田馬場の由来

高田馬場は高田君と馬場が由来だそうです。

『たかだのきみ』と読みます。『たかだくん』と読まないで下さい。高田君とは 、家康の息子、越後高田藩主松平忠輝の母で茶阿局(ちゃあのつぼね)のことです。
「高田君」とか「高田様」と呼ばれていたそうです。
高田君はこの土地に庭園を造り、遊覧地としました。

馬場の場所は、江戸初期に高田君の庭園があった場所で西早稲田3丁目付近にありました。
馬場とは、流鏑馬(やぶさめ)や馬の調練・あるいは弓射(ゆみうち)など旗本たちの稽古場のことです。
馬場の大きさは、長さ、六町(約645m)幅は30間(約54m)ありました。
享保年間(1716~36年)に馬場の北側に松並木がつくられ、農家の開いた 出茶屋が八軒ほどあったそうです。

馬場の中央には一すじの土手があり、二分されてました。
向こう側で流鏑馬の練習をしています。
さらにその向こう側には小さく見物人の頭が描かれています。

土手の手前側では弓の遠射の様子が見えます。
一人の若党は矢をひろい、他の一人は松の根元で記録している様に見えます。
手前の休み茶屋の店先は藤の花がきれいに垂れ短冊がゆれ、休み客は花の美しさに感嘆しているのでしょうか。
茶屋の奧では食事をしている様子が伺えます。
ここは雑司ヶ谷鬼子母神に参詣する人たちが多数よったと言われています。
またこのあたりは植木屋が多く、数十軒もあり、銘木・銘石を集めていたので 、それらを眺めながらの行楽の場所でもあったのです。