大江戸八百八町はウソ?実は808どころじゃなかった江戸の町の数

大江戸八百八町はウソ

江戸の町と聞けばおなじみのフレーズ「大江戸八百八町」。
この「八百八」という数字、リアルな町の数だったのでしょうか?それとも、たくさんあることを大袈裟に表現していただけなのでしょうか?
実際はいくつの町があったのか。町は今の東京でいうどの範囲まで広がっていたか。
「八百八町」の真相と、現代の東京とのつながりをひもときます。

「江戸の八百八町」は本当に808あった?

結論:八百八町は“実数”ではなくキャッチコピーだった

「大江戸八百八町」という有名なフレーズは、江戸の実際の町数を正確に表した数字ではありません。東京都公文書館も「江戸八百八町は実際の町数ではなく、多数の町が存在したことを示す慣用表現」と明記しています。

江戸時代の言葉づかいでは、「八百八」や「千」「万」などの大きな数字は「数えきれないほどたくさん」というイメージでよく使われました。江戸の町人たちが、自分たちの暮らす巨大都市・江戸をちょっと誇らしげにアピールするコピーとして「八百八町」という表現が広まったと考えられます。

では、実際には町はいくつあったのでしょうか。江戸の町数を年代別に追った東京都公文書館の資料によると、江戸の総町数は延享年間(1744~1748年)にはなんと1,678町に達していました。大袈裟に言っているどころか、ほぼ倍というスケールで、当時の江戸が世界有数の巨大都市だったことがわかります。

いつの時点で「808」を超えたのか

では「八百八町」というイメージと、実際の町数の増え方はどこですれ違っているのでしょうか。江戸の町は、幕府開府後の都市整備によって一気に広がり、慶長~寛永年間(1596~1644年)にはすでに約300町ほどが成立していました。

その後も、町奉行支配の町は増え続け、寛文2年(1662年)には674町、正徳3年(1713年)には933町にまで拡大しています。研究者の解説では、延宝年間(1673~1681年)ごろにはすでに町の数は808を超えていたと考えられています。
つまり、「大江戸八百八町」と謳われる頃には、とっくに808をオーバーしていた計算です。それでも「八百八町」という言い回しが残ったのは、語感がよく覚えやすいこと、そして“キリのいい大きな数”としてイメージが定着したからだと考えられます。



江戸の町はどこまで広がっていた?今の東京に置き換えると

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江戸の範囲=ほぼ山手線の内側+東側の一部

「八百八町」と言われる江戸は、地理的に言うとどこからどこまでを指していたのでしょうか。江戸の範囲は役所によって定義が少しずつ異なりましたが、幕府は「御府内(ごふない)」と呼ばれるエリアを定めていました。

この御府内は、北は荒川・石神井川周辺(板橋宿・滝野川あたり)、東は中川(亀戸・平井周辺)、西は神田上水(代々木・長崎あたり)、南は目黒川(品川宿周辺)までとされました。現在の地図で置きかえると、「ほぼJR山手線の内側に、江東区と墨田区の一部などを加えた範囲」が江戸の中心的な市街地と重なります。

つまり、今日の感覚で「大江戸八百八町の中心地はどこ?」と聞かれたら、
 ・ 東京駅・大手町・日本橋周辺(江戸のビジネス中心地)
 ・ 神田・秋葉原周辺(商人や職人の町)
 ・ 浅草・上野・両国・本所・深川エリア(庶民文化と遊興のエリア)

あたりをイメージするとわかりやすいでしょう。現代の「都心 ~ 下町」のイメージは、江戸時代の町人地の広がりとかなり重なっています。

江戸の“下町”= 今のどこ?

「八百八町」と聞くと、下町情緒あふれる景色を思い浮かべる人も多いはずです。江戸時代に「下町」と呼ばれていた地域の中心は、日本橋や神田でした。現在の地名で言えば、中央区日本橋や千代田区神田周辺がそれにあたります。

角川『日本地名大辞典 東京都』では、江戸期の下町を「神田、京橋・日本橋を中心とした地域」と説明しており、現代の東京で言うと中央区・千代田区の北東部、台東区、墨田区、江東区の一部が代表的な“下町エリア”とされています。

観光名所としておなじみの浅草寺(台東区)や、東京スカイツリーの立つ押上周辺(墨田区)、門前仲町や深川不動尊(江東区)などは、まさに江戸の下町文化を色濃く残す一帯です。浅草寺の門前町として栄えた浅草や、隅田川東岸の本所・深川は、江戸時代にも庶民の暮らしと娯楽の中心でした。「八百八町のにぎわい」を味わいたければ、この城東エリアを歩くのが一番の近道といえるでしょう。

実際にあった江戸の町の名前

当時の江戸の町名は、現代の東京にどのような形で残っているのでしょうか。
実は、私たちが普段当たり前のように使っている「日本橋」「神田」「京橋」「銀座」といった地名も、江戸時代から続く名前です。
江戸の町名は、すべてが消えてしまったわけではありません。
町の統合や住居表示の変更によって名前が変わった町もありますが、形を変えたり、名前の一部だけを残したりしながら、今の東京の中に生き続けています。

江戸時代の町名 現在の場所
日本橋室町 日本橋室町
日本橋通町 日本橋中央通り周辺
神田鍛冶町 神田鍛冶町
浅草瓦町 浅草周辺
浅草花川戸町 花川戸(浅草寺北側)
本所石原町 墨田区石原
深川富岡町 門前仲町・富岡八幡宮周辺
両国米沢町 両国周辺
京橋南伝馬町 京橋周辺
芝口 新橋周辺
品川宿 北品川周辺

江戸の町名は、今の東京に地名として残っています。東京の地名をたどることは、江戸の町を歩くことでもあるのです。

数字だけじゃない、「八百八町」が伝える江戸のリアル

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“一町”の大きさと、現代の「○丁目」感覚

「町はいくつ」と言われても、そもそも「一町」のサイズがピンとこないかもしれません。江戸の町人地で「町」と呼ばれた単位は、現在の行政区画とは意味合いが異なり、京間60間(約118メートル)四方の正方形を基準として町割りされた区画でした。

イメージとしては、「大通りと大通りに囲まれたひとかたまりの家並み」くらいの感覚で、現在の○丁目に少し近いイメージです。ただし、現代の「1丁目=必ず正方形」というわけではないので、その点は大きく異なります。

たとえば、現在の中央区日本橋エリアを歩いてみると、「日本橋室町一丁目」「日本橋本町三丁目」といった丁目表示がありますが、江戸時代にも「日本橋通○丁目」「本石町○丁目」など、通りや町を基準にした区画名が使われていました。

江戸城下では、神田方面から日本橋、京橋にかけて日本橋通や本町通(現在の江戸通り)が主要な通りとして町割りの基準となり、その両側に町人地が整然と配置されていきました。現代でも東京駅から日本橋・神田方面に歩くと、碁盤目状の町割りがそこかしこに残っており、「あ、ここは“八百八町”の中心だったんだな」と実感できるはずです。

町奉行が見ていた“江戸の顔”とは

「八百八町」を語るうえで欠かせないのが、町奉行の存在です。町奉行は、江戸の町方(町人地)の行政・司法を担った役職で、現代風に言えば「都庁+警察+裁判所の一部」をまとめて預かるような強力なポジションでした。

町奉行の管轄下にあった町の数は、明暦の大火後の復興とともに増え続け、18世紀半ばには寺社門前町も取り込んだ結果、総町数が1,678町に達しました。町奉行の仕事の相手は、“八百八町”どころではない、超巨大都市の住民たちだったわけです。

当時の江戸の人口は、正徳3年(1713年)ごろには100万人を超え、ロンドンやパリと肩を並べる大都市へと成長していました。そんなメガシティのガバナンスを町奉行が一手に担っていたと思うと、「八百八町」というフレーズから、江戸のスケール感がよりリアルに伝わってきます。



「八百八町」を今の東京で味わう

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日本橋・神田で“江戸のビジネス街”を歩く

「八百八町」の実感をつかむには、現地を歩いてみるのが一番です。まずおすすめしたいのが、日本橋・神田エリアです。ここは江戸時代の下町の中心であり、商人や職人がひしめくビジネス街でした。

日本橋は東海道の起点でもあり、日本中から物資と人が集まるターミナルでした。現在でも日本橋交差点には日本国道路元標が置かれ、全国の道路の基準点となっています。江戸時代の「江戸の玄関口」に立って、周囲の高層ビル街を見渡すと、「八百八町」が現代の大東京にそのままバトンを渡しているような感覚を味わえるでしょう。

すぐ北側の神田エリアは、今も古書店街や老舗の飲食店が多く残る“職人街”の雰囲気を色濃くとどめています。江戸の頃から続く商いの匂い、昭和レトロなビル、そして再開発で生まれた新しいオフィスビルが同居する風景は、「八百八町のDNA」が21世紀まで連続していることを感じさせてくれます。

浅草・本所・深川で“庶民の八百八町”を感じる

もう一つのおすすめエリアが、浅草から本所・深川方面への散歩コースです。浅草は江戸時代から浅草寺を中心とした門前町として栄え、芝居小屋や遊興施設が立ち並ぶ一大レジャースポットでした。現在も雷門から仲見世通り、浅草六区方面へと歩けば、“江戸のテーマパーク”のようなにぎわいを体感できます。

隅田川を渡って本所・深川方面へ足を延ばせば、江戸時代に武家地や職人地として発展した町並みの名残に出会えます。深川不動尊や富岡八幡宮などの寺社は、当時も今も人々の暮らしに寄り添うランドマークです。東京スカイツリーがそびえる押上のあたりも、かつては隅田川沿いの町場として「八百八町」の一角を形作っていました。

現代の東京メトロ東西線や都営大江戸線、都営浅草線に揺られながら、このエリアをつなぐように歩いてみると、「八百八町」の実態は“数の話”ではなく、“人々の暮らしの密度”だったのだと実感できるはずです。