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丸の内が「三菱村」と呼ばれる理由
江戸時代の丸の内:格式高い御城内
丸の内は江戸時代、江戸城の外堀に囲まれた御城内に位置し、大名屋敷が立ち並ぶ格式高いエリアでした。「大名小路」と呼ばれたこの地には譜代大名や旗本たちが居住し、政治・軍事の要所として重要な役割を担っていました。これらの屋敷は壮麗な庭園や建築物で知られ、江戸城を中心とした権威ある空間を形成していました。江戸時代に丸の内の大名小路にあった旧因州池田屋敷表門
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(重要文化財
ちょっとだけ京都感🌸 pic.twitter.com/rUhqgfxZTe
明治時代への転換:陸軍用地から三菱へ
明治維新後、この地は陸軍練兵場として利用されました。しかし1886年、明治政府は財政難を解消するため、この土地を民間に払い下げる決断をします。当時、このエリアは荒地と化しており買い手がつかない状況でした。その中で岩崎弥之助率いる三菱が土地を購入し、近代的なビジネス街への開発を進めていきました。この決断が後に丸の内を「三菱村」と呼ばれる象徴的なエリアへと変貌させます。三菱による丸の内開発とその影響
岩崎弥之助と荘田平五郎のビジョン
岩崎弥之助は英国滞在中に先進的なビジネス街を目にした荘田平五郎から影響を受け、日本初となる近代的オフィス街「一丁倫敦」を目指しました。1894年には日本初の貸しビル「三菱一号館」が完成し、赤煉瓦造りの美しい街並みが形成されました。この建物群は当時として画期的であり、日本経済発展の象徴となりました。3月6日は何があった日?
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1890年(明治23年)の今日、政府が三菱の2代目当主・岩崎弥之助に東京の丸の内一帯を150万円で払い下げました。
当時の丸の内は「三菱ヶ原」と呼ばれる草原。丸の内最初のオフィスビルである三菱一号館の竣工を皮切りにロンドンの街を模倣した赤煉瓦街が建設されました。 pic.twitter.com/fzKc0fNuOy
皇居前という立地条件と規制
丸の内は皇居前という特別な立地条件から建物高さ制限や商業集積排除など厳しい規制が課されました。しかしこれらの制約によって静かで穏やかな環境が生まれ、オフィス街として理想的な場所となりました。この静寂さはビジネス街として高い評価を受け、現在もその特徴が引き継がれています。現代における丸の内と「三菱村」の未来
平成以降の再開発:新たな魅力
平成14年(2002年)の丸ビルリニューアルを皮切りに、「丸の内オアゾ」や「MY PLAZA」など複合施設が次々と誕生しました。これら新しい施設は、ビジネス街としてだけでなく観光スポットとしても注目されています。ショップやレストランなど多様な商業施設が充実し、丸の内は働く場所から楽しむ場所へと進化しています。仲條正義さんデザイン、丸の内オアゾのロゴ pic.twitter.com/3th2RKzT09
— 小野圭介/ONO BRAND DESIGN (@OBD_ono) March 12, 2025
土日の顔が変わるオフィス街
平日は多くのビジネスマンで賑わう丸の内ですが、その性格上、土日は人影もまばらになることがあります。この独特な二面性もまた「三菱村」の魅力と言えるでしょう。静かな週末には皇居周辺を散策する人々も見られ、この地域ならではの落ち着いた雰囲気を楽しむことができます。未来への展望:次世代型都市への挑戦
環境配慮型都市計画
現在、「丸の内NEXTステージ」として新たな街づくりが進行中です。環境配慮型建築やカーボンニュートラル推進など持続可能性を重視した取り組みが行われています。また、働く人々のQOL(生活品質)向上を目指した空間設計も進められており、未来型都市としてさらなる進化が期待されています。消える戦後モダン建築・帝劇ビル・国際ビル、1966(昭和41)年竣工、設計・谷口吉郎、三菱地所による丸の内NEXTステージの始動により、2025(令和7)年を目途に閉館予定ですが帝劇サブモールの右隣、第一生命館側エントランスの階段周りも渋ビルモダンな趣きですので、こちらも是非ご覧になって下さい! pic.twitter.com/k5ZLVnrDXP
— ジョリートロリー (@bli1TBPrsEShCWz) January 7, 2023