練馬大根  -江戸野菜-

練馬大根(ねりまだいこん)はその名の通り、東京都練馬区の特産品でした。
かつては大根の代名詞のような存在で、大根といえば練馬大根を指していました。
白首大根系の品種で、首と下部は細く、中央が太く辛味が強い特徴がありました。
漬物、特にたくあん用として重宝され、辛味が強いことから、大根おろしに好んで用いられました。
煮物、干しダイコンなどの調理も人気がありました。

江戸時代、5代将軍徳川綱吉がまだ右馬頭(うまのかみ)であった頃、脚気を患いました。
陰陽師に占わせたところ「馬」の字のつく土地で療養するとよいということで豊嶋郡の練馬に御殿(北町)を建て療養したそうです。
このとき、大根は脚気(かっけ)にもよいとのことで、尾張から種を取り寄せ、近在の百姓に作らせたところすばらしい大根ができあがりました。
練馬地方一帯を覆う武蔵野台地は関東ローム層で、どうやらこの土壌が栽培に適していたようです。
病気もよくなり、後に将軍となってからも村民に大根を栽培させ、献上させたという言い伝えがあります。

当時すでに人口百万をこえる江戸の需要にこたえる江戸野菜の供給地として、練馬大根の栽培も発展していきました。
尾篭(びろう)な話になりますが、よい大根を作るための肥料は、江戸の下肥(しもごえ:人糞のこと)でした。
江戸時代は農地の肥料として下肥即ち糞尿は大変貴重なもので、野菜を納める代わりに受け取る貴重なものだったのです。

さて、明治の中頃から東京の市街地が拡大していくのに伴い、練馬大根の生産も一層増大していきました。
その練馬大根は、たくあん漬けとして製品にされ出荷されました。
また、干し大根としても販売され、練馬の特産物となりました。
江戸の発展、さらに地名も東京と革められる中、庶民の需要に応えるため大量の大根が栽培され、練馬大根は全国的にその名をうたわれるほどになりました。
これを記念して、昭和15年(1940年)東京都練馬区春日町に練馬大根碑が建立されています。

練馬大根は昭和の初めのころまで盛んに栽培され続けますが、 昭和8年(1933年)の大干ばつや、何回かのモザイク病(発病すると葉や花弁に濃淡のまだら模様ができ、モザイク状に見える)の大発生によって大きな痛手を受けました。
その後も、食生活の洋風化、急激な都市化による農地の減少、栽培の難しさ、収穫時の重労働などにより、昭和30年頃から栽培は衰退。
今では練馬大根が出回ることがほとんどなくなってしまいました。現在見かける大根のほとんどは病気に強く栽培しやすい青首大根になります。

平成元年、農林水産省指導の下、練馬区が主体となって「練馬大根を見直す会」が発足。
現在、JA東京あおばが協力し、農家での委託栽培が行われるようになりました。
収穫された「練馬大根」は漬物業者による加工、デパートでの販売、JAによる直販なども行われており、小規模ながらも江戸野菜が流通するようになりました。
そのほかにも、栽培や収穫に小中学生が参加したり、「練馬大根引っこ抜き大会」を開催するなど、大根を通して都市農業の価値を子どもたちや住民に伝え、農業の恩恵を学ぶ活動も盛んに行われており、かつての江戸野菜は着実に継承されているのでした。